4/6 どうでもいいこと

 30歳くらいで死ねたらいいのに、とよく考えている。そして私の葬式にみんな出てほしい。

 

 別に必ず死んでやろうとまで言い切ることのできるような固い意思をもっているわけではないので、時が来たら自殺してしまうようなことはないだろうけれども(そもそも自殺に対してよいイメージがない、当たり前のことだが。あれは友人を減らす、というかなぎ倒して根こそぎなくしてしまうような行為だと思っている)、別に今死んでもいいなと思っている節もある。これまでの日々に十分と言っていいほど満足しているので。

 私は今恐らく学生の身分で過ごす最後の春を終えようとしているところであり、来年の春から40年強の労働生活が始まってしまうわけだが、これから先の私はいったい何を得ることができるのだろう。

 

 人間が好きだ。好ましい人間は数えきれないほどいる。一人の時間は大事だが、孤独は大嫌いなので、一人に満足した状況にある私は、できるだけ好ましい人間と一緒に過ごしたがる。この性質はきっとこれからも変わらないだろう。

 好きな人間と一緒に居るとそれだけでなんだか大丈夫で、その時間には意味が生まれて、そこにいる私にも意味が生まれる。今はその時間を十分に浴びることができているけれども、いつまでその状況は続くのか。

 年を重ねて周囲が家庭を持ち、子どもを育てるようになると、空いた時間にちょっと家に遊びに行くとか、夕食を作りながら電話をするとか、そういったことをできる相手はどんどん少なくなっていくはずだ。それこそ、私が30歳を迎えるころから加速度的に気軽に関われる友人たちは減っていくだろう。

 私も家庭を持つことがないとは言い切れないが、今の私にはこのひとりの時間を失って、常に何かに縛られておく覚悟はできていない。

 

 私の中身を育てた祖父母を看取り切ったらもう余生だ。ずっと生きていてくれよと思う一方で、あと10年あるだろうかと静かな気持ちになるときもある。そこで余生が10年後から始まると仮定すると、その余生にはたくさんの友人たちと気ままに過ごせる夜は残っていないような気がする。そんなのは耐えられない。これまで以上に楽しい日々が今後の人生で来ることがあるのか。もし来ることがあるとして、そのために払う対価はどれくらい大きいのか。私はそれを払えるのか。払う決意ができるのか。

 

 というようなことを考えて、30歳くらいでしねたらなあ、と友人にぼんやりこぼすと、「そういうことを言うやつは80くらいまで生きるよ」と告げられてしまった。そのため、億劫だなあと思いつつも、まあそのうち覚悟を決めなければならないタイミングが来たら、頑張ってみるしかないのかも、などと目を合わせているような逸らしているような、暢気な態度で日々を過ごしている。